大井川用水の歴史

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● 用水事業のはじまり

 昭和22年、この状況を何とか解決しようと、志太郡(しだぐん)・榛原郡(はいばらぐん)の町長や村長たちが立ち上がりました。取水の根本的な改良と、かんがい用水路を新しく作ることを国や県に呼びかけようと、大井川用水改良事業期成同盟会を結成し、続いて、大井川用水普通水利組合を設立しました。

 国に対して、地元出身の県会議員の協力により何回も陳情(ちんじょう)したり、地元出身の国会議員を通して国会に要望するなど、さまざまな働きかけを行いました。こうした活動が実をむすび、この年、ついに国営かんぱい事業として決定されました。その計画は、12の取水口を大長村相賀(おおながむらおうか)の赤松地先に合口(ごうぐち)するというもので、12の水門で取水していた毎秒27.78立方メートルの水利権が認められました。その後、合口の位置は、神座地先に変更し、昭和27年には国営事業だけでなく県総合開発事業も加わることになりました。

 最終的には、大井川から直接取水するのではなく、川口発電所放水口の下流口から取水する計画になり大井川、幹線づい道によって神座に分水工を構築し、ここに水を引くことになったのです。取水量は毎秒36.80立方メートルに増え、配水区域も金谷および小笠平野にまで拡大しました。

 それぞれの地域の取水量は、大井川左岸は当初の計画通り、毎秒25.92立方メートル、神座・毎秒 0.66立方メートル、 金谷・毎秒 3.72立方メートル、 大井川右岸・毎秒 6.5立方メートルです。 こうして目的を達成した 大井川用水改良事業期成同盟会は解散し、大井川用水普通水利組合も発展的な解消となりました。
 そして新たに、昭和26年8月、大井川土地改良区が設立されました。以来、改良区は、事業の推進に当たり、国営附帯事業、県営かんぱい事業、団体営事業など、それぞれの事業を計画してきました。昭和43年、約20年の歳月と8億円にもおよぶ巨費を投じた、国営かんぱい事業はようやく終了しました。大井川流域に、35,000mの幹線の用水路が新しく開発されたのです。

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